距離

dewdrop2004-11-18

ゆとり教育的に言えば「およそ30」のこの歳になっても憧れというものはある。かつて、と言ってもわりと最近の話だけど、「relax」誌において(「relax」は今やなんだかあの頃とは別の雑誌になってしまった)アメリカ西海岸辺りのサーファーカルチャーやスケーターカルチャーとその周辺のアーティスト達がフィーチャーされていた時期があって、早朝のマクドナルドでまずいコーヒーを飲みながらああいいなあうらやましいなあと想いを馳せながらそんな記事を読んでいたものだった。自分もあの中に加わりたいなあとか、自分もあの辺りに生まれていたらああいう風になれたのかなあとか。クリエイティブな雰囲気の中で日々楽しく暮らしていけたらどんなに素敵なことか。つまり端的に言えばあの頃、私は「サーファーに憧れていた」のだ。あはは。「サーファーに憧れていた」だけをこうやって切り取るとおそろしく頭の悪い感じがしてなかなかいい(サーファーをバカにしているわけではありません、念のため)。言葉は意図しないところで力を持つ。
完全に余談であるが、マックのコーヒーは心の底から不味いのでハングリー精神を鍛えるのによい。サラリーマンとは潜在的ブルーカラーであるということを強く認識させてくれる貴重な存在である。さすがアメリカが世界に誇る大企業。マックのコーヒーがうまくなったとしたら私は今よりもマックには行かなくなるだろう。
憧れとは距離のことであると言った人がいる。
それは確かに正しい。だってアメリカ遠いもん。うん。そういうことじゃない。わかってる。わかってるってば。
憧れているというその距離感をそのまま愚鈍に表現してしまうとそれは単なる模倣になる。だから私はサーファーになろうともスケーターになろうとも思わない。まあ今さらってのもあるし。模倣することには意味がある。けれども全てが模倣になってしまったら、そして様式美の踏襲というスタイルを超えられないなら、何も表現していないのと同じじゃないのか。まあ、サーファー云々はともかく、常に何かしら発生し続ける憧れというものに対して、その距離感をどうやって縮めてやろうかと考えることに意識的でありたいとは思う。